- 結婚したら義家族と付き合わなきゃダメ?
この記事でわかること
- 結婚したら義家族と付き合うべきか
- 私が義家族との付き合いを重視しない理由
私は「義家族と付き合わなくてもいい」と考えています。
事実、私は義家族との付き合いに消極的です。
自己紹介
- 20代の子なし専業主夫
- 義家族との付き合いに消極的
私たちの義家族との付き合い方
はじめに、私たち夫婦の義家族との付き合い方を紹介します。
一言でいうと、
結婚する前と同じ付き合い方です。
良くも悪くも、結婚したからと言って義家族を特別視していません。
「仲良くなりたい」とも「関わりたくない」とも思っていません。
あくまで「妻の知人」という位置付けで、フラットな感情を抱いています。
義家族と付き合わないとダメ?
結婚したら義家族と付き合うのが「普通」でしょう。
ここでいう「普通」は、
- 多数派の行動や思想
- 前例を踏襲した行動や思想
です。
しかし、義家族と付き合うことは「絶対的な正解」ではありません。
- 義家族と付き合う人がたまたま多いだけ
- なんとなく前例を踏襲しているだけ
とも考えられます。
いやいや!
義家族と付き合うのは、
常識&責任&慣習&美徳
常識とか言うけど、単に好みの問題だよね?
「カレーをライスとナンのどちらで食べるか論争」と同列です。
ライスを好む人が多いのと同じで、義家族と付き合いたがる人が多いだけの話。
正解・不正解はなく、どちらでもいいのです。
義家族と付き合えと言われる理由
なぜ、義家族と付き合うことが正解かのように語られるのでしょうか。
「私の親の意見」と「ネット上の意見」を参照して考えました。
それが「常識」だから
これ以上でも、これ以下でもありません。
「常識だから」の一点張りです。
常識を唯一解と思い込んでいるのです。
彼らは「非常識」を「ケガレ」と認識し「浄化」したがります。
「常識」には排他的な側面があるよね
科学的知識はつねに問に生かされ、従って探求を本質とするものである。しかるに常識は問のない然りであり、否定に対立した肯定でなくて単純な肯定である。常識は探求でなく、むしろ或る信仰である。
三木清『哲学入門』
哲学者の三木清は「常識は信仰」と述べています。
科学的知識(探究)
→ 常に問いに晒されて根拠を求められる
常識(信仰)
→ 問いに晒されず、根拠なきまま肯定される
「義家族と付き合う」が常識化された現在、このことを疑いもしない人が大量発生するのは当然の帰結なのです。
結婚に伴う責任として
結婚に伴って義家族と付き合う責任が生ずる
との考えです。
よく「結婚には責任が伴う」と言いますよね。
- 同姓にならなければならない
- 無収入の配偶者を養う扶養義務
- 不倫してはならない貞操義務
などの法的な責任があります。
ここに「義家族との付き合い」を独自に追加する人がいるのです。
あくまで「独自に」追加しているだけ
「義家族との付き合い」に法的な責任なんてありませんから。
家族至上主義
日本では家族至上主義が幅を効かせています。
- 家族なんだから〇〇
- 家族が第一優先
- 最後に頼れるのは家族
などなど、家族を神格化している節があります。
結婚して親族となることに特別な意味を見出す人が多いんだ
多くの場合、家族は「血縁や婚姻により規定される集団」です。
家族至上主義者は婚姻を「家族化される重大イベント」と捉えます。
つまり、家族至上主義者の考えはこうです。
- 結婚したからには家族の一員である
- 家族には至上の価値がある
- ゆえに義家族を大切にせよ
私は嫌いですが、この考えを好む人は多いでしょうね。
育児で頼るため
これは功利的な考えです。
義家族に頼れる関係性を築いておきたいのでしょう。
頼れる関係性を築いておいて損はないね
私が義家族と付き合わない理由
私は義家族を嫌っているわけでも、全く付き合っていないわけでもありません。
ただし、義家族との付き合いに消極的なのは事実です。
その理由は次の4点があります。
非常識でも気にしない
「結婚したら義家族と付き合うこと」は常識です。
他方、常識はある種の信仰です。
日本には信仰の自由があります。
常識が信仰ならば、必ずしも常識に従う必要はないのです。
しかし、非常識に振る舞うと、
- 嫌われる
- 嫌がらせを受ける
- コミュニティから疎外される
などの不都合が生ずるでしょう。
逆にいうと、
不都合を容認すれば非常識でも良いのです。
義家族に嫌われても構わないのなら非常識でもいいということです。
とはいえ、義家族だって悪人じゃないかも?
私は今までに嫌がらせを受けたことはありません。
嫌がらせを受ける覚悟は必要ですが、実害を被ることは滅多にないでしょう。
「変わった人」と思われるくらいです。
義家族との付き合いに責任感がない
「結婚に伴って義家族と付き合う責任が生ずる」と考える人がいます。
しかし、
誰しもが負うべき責任ではありません。
義家族との付き合いに「法的な責任」はないというわけです。
事実、扶養(介護)義務は血縁者に限られています(参考)。
義家族の介護は法律上の義務ではないのです。
各人の「美意識」の問題だね
身内同然の付き合いを理想とする人もいれば、そう思わない人もいます。
無責任だとかいう話ではありません。
私は「義家族との親密な付き合い」を理想としていないだけです。
義家族に特別な感情がない
「義家族」という概念自体を特別視していません。
義家族は単なる「妻の知人」と認識しています。
「妻の友人」や「妻の会社の同僚」と同列というわけです。
考えてみれば当然です。
人間は共に過ごす時間が長いほど、親密になる確率が上がります。
私が義家族と共有した時間は100時間もありません。
100時間なんて会社の同僚ならば2〜3週間で到達するね
「義家族」という肩書きだけで親密になる方が不自然なのです。
今後、共有する時間が増えれば親密になるかもしれません。
ただし、親密になるべく、共有する時間を増やすつもりはありません。
私にとって「親密な関係」とは、相手からの評価を気にせず、素直に腹の中を明かせる関係。例えば、自分の悩みをありのまま打ち明けたり、忖度なしに意見し合える関係だ。
「親密さ」は自然に醸成されるものと考えている。作為的に親密になろうとしても、真の意味で親密にはなれない。少なくとも私はそうだ。旧友とは「いつの間にか」仲良くなっていた。妻とも「いつの間にか」結婚していた。
ビジネス的な文脈で親密になることは比較的容易だろう。しかし、ビジネス的親密では、相手からの評価を気にせずにはいられない。私は「ビシネス的に親密な関係」を極力減らしたい。維持・管理が面倒くさいからだ(それが嫌で会社を辞めた節もある)。
義家族との親密化を図ることは「ビシネス的に親密な関係」を増やすことに他ならない。ゆえに、私は義家族と(作為的に)親密になりたいとは考えていない。時間の流れに身を任せて「縁があれば親密になるかもね」というスタンスでいる。
妻にしか興味・関心がない
私の興味・関心の対象は妻です。
義家族は「妻を通じてはじめて意識する存在」です。
妻とさえ仲良くやっていければ満足なのです。
私たちは「義家族」と「夫婦」を独立したコミュニティと捉えています。
ゆえに、義家族と付き合わなくても夫婦関係は悪化しません。
私は妻にのみ意識を向ければ良いのです。
おそらく、義家族から見た私も同様の存在
義家族にとっても、娘(私の妻)が幸せならば私の状況はどうでもいいでしょう。
まとめ
この記事では、結婚したら義家族と付き合うべきかどうかを考えました。
その結果、別に付き合わなくても良いという結論に至りました。
世間では「義家族と付き合うのが常識」と言われています。
しかし、常識が絶対的に正しいとは限りません。
常識なんかより、各人の価値観に沿って行動した方が納得感を得られます。
たとえ非常識と言われようが、私の結論を変えるつもりはありません。
私が義家族との付き合いに消極的な理由は次の4点に集約されます。
「義家族と付き合わなければ!」と思い込んで苦しむくらいなら、いっそ非常識人になるのもアリだと思いますよ。
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